西藤島地区の名所・旧跡
杉田定一治水謝恩碑
西藤島は、九頭竜、足羽、日野らの三大川に囲まれている土地柄、明治の頃までは小屋根まで届く恐ろしい浸水をうけることも度々でありました。
しかも浸水が半月にも及ぶことも珍しいことではなく、作物は枯死し、その年の村人の生活は、筆舌に尽くせぬものがありました。
しかし、福井出身の衆議院議員杉田定一が、千数百石もあった私財をなげうって、明治の末年頃九頭竜川本支流の治水に努力し、国の事業として大堤防を築いてより、村をあの恐ろしい水害により救ってくれました。
(昭和3年10月4日設立)

治水百年記念碑
九頭竜川の直轄事業として明治33年(1900年)着工して以来百年を経過し、これらの歴史を後世に伝えるため、2000年10月に建てられたものです。〈碑文〉
私たちは今日までの百年を振り返り、水害に苦しんできた地域住民の苦労や、洪水との戦いに明け暮れてきた多くの先人達の努力に感謝すると共に、川と地域住民との関係を改善し、地域のさらなる発展を念願する。
九頭竜川水系治水百周年記念事業を実施するに当たり、多くの地域住民が浄財を出し合いここに記念碑を建て、過去への謝恩と、これから二十一世紀に向かって新たなる努力を誓った。
平成十二年十月二十八日
西藤島地区治水百周年記念事業実行委員会

祇王祇女の屋敷跡
三郎丸地籍の旧役場のところに、昔、平清盛の愛妾であった白拍子の祇王祇女が住んでいたと伝えられているところがあります。小さい石の祠(ほこら)と、「萌え出づるも枯るるも同じ野辺の草いずれか秋にあわではつべき」と刻まれている石柱があります。
祇王は近江国の祇王村で生まれた白拍子で清盛の寵愛を受けていましたが、たまたま加賀生まれの別の白拍子仏御前が現れてからは、清盛の心はその仏御前にすっかり移ってしまいます。昨日までの寵愛はどこへやら、館を追い出されてしまう祇王。せめてもの形見にと障子に書き残していったのが先の歌です。(芽生えたばかりの草も、枯れる草も、野辺の草は結局みな同じ。 秋になると枯れ果ててしまうばかり。人もまた、愛されるかとおもえばいつかは飽きられてしまうのでしょう。)
祇王は世をはかなみ嵯峨野の住生院に世を避け仏道に入りました。後に追い出した仏御前も後を追ってこの祇王寺にやってきて一緒に尼になります。こうして一人の横暴な権力者に翻弄された女3人(祇王、祇女(妹)仏御前)。 嵯峨野のわびしい庵で読経三昧の生涯を送ったかと思うと感慨深いものがあります。

首切り地蔵
昔、深谷地籍の山奥に、安居の王と呼ぶ長者が居り、徳王・彦王という二人の子どもがおりました。
兄の徳王は先妻の子でしたが、大変賢く仕事ができ、それに比べ弟の彦王は、何をしても兄より劣っていたので、母親は、彦王の先行きを心配し、召使に命じて一刀の下に徳王の首をはねてしまいました。
しかし、徳王の首が見つからないので、血痕をたどって行くと、深谷地籍の萱降道(船付場)で止まっていました。
その後、ある村人が川から舟を揚げようとしましたが、いくら引っ張っても舟が動かないので、川底を見ると、底に地蔵尊が沈んでいました。舟人はびっくりして地蔵尊を引き揚げ、見てみると、首の所が割れ、そこから後光がさしていました。
それ以来この地蔵尊を首切り地蔵と名づけ、永らく山のふもとに安置してありました。しかし、今は深谷霊園に移し、現在も霊園に安置されています。

五輪塔
水輪中に阿弥陀の種子キリークを鋭く薬研彫りされた大型の五輪塔で三尊仏を表記している。
鎌倉後期のもので白毫寺との関係もすてきれません。

別れ地蔵
現在は使用されていないが、村の火葬場に行く道筋に二体のお地蔵さんが祀られている。
言い伝えでは亡くなられた方とここで村人がお別れしたといわれます。













